忘れていた水伝関連

田崎さん@学習院「「水からの伝言」を信じないで下さい」のリンクを今更はってみる。

水伝に関しては前に殴り書きをしたんですが、今日は以下の一文を勝手に差し上げたいなと。

もしわれわれがみずからの行為を完全に倫理的に正しいと自認するようなら、それはまったくモラル的ではありません。みずからの行為を正当化することがモラルの問題ではないのです。モラルはイデオロギーではない。自分に対して倫理的に正しいという判断をあらかじめもってしまっていることほど、モラルとして醜いことはありません。そうではなくて、みずからの行為が正当であるかどうかの保証がなく、確固とした判断基準もないところで、しかしみずからを基準にするのではなく、あくまでも他者を基準にしてみずからの行為を考えようとすることこそがモラルです。
他者に時間を与えようとすること、
他者にコミュニケーションのための言葉を与えようとすること、
他者にその未来への「開け」を与えようとすること、
つまり、他者に希望を与えようとすること。

from

知のモラル

知のモラル

 pp.14-15

あと孫引きですが

たとえ敵対者同士であっても、その2人の人間の間に対話が成立するためには、共通の土俵が、今の場合、真理に対する共通の敬意が前提とされるものだ。

from P. ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者たち』(石田靖夫訳、人文書院、1995) pp. 9-10

というのが樋口陽一『「知」の賢慮に向けて』という論文に書いてあったりでして、再読しなきゃいかんなあと思ったわけなのですが。
要は理系だ文系だ言う前に、そこに真理に対する共通の敬意が存在しているかということであったりするのではないかと。
自分の主張したいものとか信じているものをあえてそこで括弧に入れること、しなやかにそれを「避ける」ことができるのかどうかという点に敬意っていうのがあるんじゃないかとふと思ったり。

ただビリーバーとの対話というのはファンタジーでしかないのかもしれないと暗澹たる予感がよぎったりもする訳で。
どうしたらいいのかわからないけど考える前に何かしなきゃな。