水に言われたかないよな

水からの伝言(水伝)についてはハナっからバカにしているのですが(そもそも日本は驚くほど識字率が高いからこそ「ありがとう」を見せるというあの商売方法はまかり通ってしまっているわけで、仮に「ありがとう」に相当する単語を読める人が殆どいない言語に関してはその基礎が揺らぐと思うのです)何かどこかで感じたようなアンバランスな、居心地の悪いものを感じていたのでした。

事象の地平線@apjのエントリを見てその気持ちの悪さがなんとなく繋がりました。

 同じようなことを、蝉について考えたことがあったので、この話は納得しやすかった。
 夏場にうるさく鳴いてるあの蝉について考える。人間一般の基準をそのままあてはめた場合、「長い間土の中にいて、太陽のもとに出てきたと思ったら一週間か十日で死んでしまうなんて……」となりがちである。そのような内容の童話や漫画を見たことがある。しかし、蝉が土の中にいる時間>>>地上で過ごす時間、であることを考えると、蝉はオケラと同様にもともと土の中で過ごす生きものであり、つがいの相手を見つけるには土の中よりは地上の方が効率がいいから、最後の産卵のためにあの形態を取るのだ、と理解することもできる。そうすると、「地上に出てから一週間かそこらの命」から受け取るイメージが全く違ってくる。つまりは、人間の基準を他の生きものに当てはめて考えたって、ほとんど意味がないし、むしろ間違っていることの方が多いだろうということである。そして、蝉が本当はどう思っているかは、人間には永久に理解できまい。

「同じようなこと」というapjさんのインスパイヤ(ぉ)元になった茂木健一郎氏のML投稿では

第二に、これはおそらく「水は語る」のような本を買って感動する
読者の心性を考える際により本質的な問題になると思いますが、
「他者性」への感受性が欠落していることです。
自分が善意を持っているから、あるいは何かを美しいと
思っているから、他者もその感受性を共有して
何らかの感応を示すべきだ、そのような世界は心地よいと
思うのは、ファシズム的心性です。
相手が人間であっても、この意味での他者性の尊重は重要な倫理問題になる。
ましてや、相手が水だったら、なぜそんなもんが自分と同じ感性を
共有していると思うのか。
そのような心の持ち方は、世界の中には自分のことなど気にもかけない、
絶対的に異質な他者が存在するのだという事実を許容できない、小児的心性と
言えるでしょう。
植物に声をかけると成長が早くなるといった類の話も、
同類です。


気持ち悪さが繋がった先は、バンビ症候群。それと菜食主義。


バンビ症候群は、身の回りから動物-ペットを除く-がいなくなったことで、動物に対する擬人化が進み、自分自身の価値観を投影した動物像を妄想してしまうというもの。だいたい動物を「脆いもの=>かわいがる対象」として見ることが多く、動物園・水族館で「カワイイ」しか言わない人はだいたいそうと疑って間違いないと思う。

ちょうど最近ちまちまと読んでいる「見るということ」ジョン・バージャー著にも(バンビ症候群の名前こそ出てこないが)近い記述-中年女性が「ライオンを抱きしめるという夢をかなえようとして襲われた」旨-があったのですが。*1

広島の安佐動物公園の獣医、大丸秀士氏は代償体験という言葉を使われている。(どうぶつと動物園/第46巻3月号No.529)

子どもたちが生まれて初めて動物に出会うのは、ぬいぐるみや絵本、衣服の絵柄などではないでしょうか。本物ではない動物たちとの接触つまり代償体験が、ほんとうに動物を体験する直接体験に先行してしまっているのです。

 自然が距離的に私たちの身の回りから遠のくことで、毎日の生活時間も代償体験に費やす時間が多くなっています。テレビや雑誌などメディアを一方的に受ける時間が多くなっているのです。このことは田舎に暮らす人々にもいえる現象ですが、本物の動物に接する時間以上にメディアの動物たちと過ごしています。現在の私たちは自然のなかでは途方にくれてしまいます。動物たちが求愛行動をしたり獲物に襲いかかったりする劇的なシーンを待つには、大変な時間がかかります。テレビや写真などの代償体験の動物の方がずっと安全でてっとり早く楽しめるといえます。

 その一方で、品田譲氏が分析しているように、「人間の身の回りから自然がある程度以上失われると自然を求める代償的行動が発生し、自然が失われれば失われるほど自然を求める行動は強化される」(ヒトと緑の空間)のです。身の回りにあふれる動物キャラクターやぬいぐるみなどを見るとなるほどという感じがします。

動物をかわいがりましょう、大切にしましょう、というのはわかる。わかるけれど、どの動物に対しても「やさしく抱っこする」「頭を撫でる」のがかわいがることではないことが希薄になってはいないか。ナナメ向いて、流し目でチラチラ見ることのほうがよっぽどかわいがっていることになる動物の方が多いんじゃないか。…といいつつ、デカいレンズを正面きってむけてるのですが。


翻って水伝は対象が水であるだけで構造的に似たもののような気がする。ありがとうといわれるとキレイになり、ばかやろうといわれると"汚く"なる。水というそれ自体ある種「美しさ」を感じさせるものを使ったことは商売としては非常にウマイ。のだけれど。大丸氏・品田氏の代償的行動という表現に関連させるならば、今「水」というものがひょっとしてイメージと現実とが乖離してきているんじゃないかとふと思った。水道水は飲むと体に悪いと一般的に信じられているみたいだし、そこから逆の視点でミネラルウォーターが売れたり、純水で入れた(という)紅茶が出たりと、「身の回りの(汚い)水」に対して「イメージとしての(本来純粋な)水」ができてるんじゃないか。確か水伝にも水道水は結晶ができないだか汚いだかの写真があったような気がするし。


水伝支持者さんはそもそも想定しうるもの・理解できるもの・共感できるものだけにチャンネルを開くことの危険さと面白くなさがわかんないのだろうか。「こうあって欲しい」からって例え恣意的な「こうある」という姿にでもシンパシーを覚える、それでいいのだろうか。結論に直結する過程(それも捏造された、いんちきのもの)しか認めなくていいのだろうか。世界を判断するのに手持ちのカードだけ使ってていいのだろうか。



最近「シャーク・テイル」と「あらしのよるに」の設定を知ってのけぞった。「ベジタリアンのサメ」「ヤギを守るオオカミ」。狂ってる。でもアメリカンな発想だと思った。(嫌われながらも世界の平和を守るアメリカ、増えすぎててもそれでもイルカクジラを保護するアメリカ、とか)だから最初は「あらしのよるに」はアメリカ製の話かと思ってたくらいで。とりあえず動物の姿を勝手に書き換えておいて道徳(それが本題かどうかは見てないのでわからないが)を語らないで頂きたい。*2というかこういう風潮に対するために是非無垢なこどもさんはオオカミとかサメに襲われてしまって頂きたい。


で、ここでやっとこさベジタリアンとのリンクが立ち上がってくる訳ですが、良心的ベジタリアンというのも解せないもので、動物に過剰なまでの共感を持ちながらなぜ植物に対するシンパシーを全くもたないのでしょうか。小さな倫理的問題(かわいい動物を殺して食べること)に苦悩して仰々しく回避することで、大きな倫理的問題(そもそも他の生き物を殺さないと生きられないこと)を見ないことにしてしまえるのでしょうか。

また、われわれは菜食主義人格にサディスティックな衝動を見出すのである。肉を食べるために動物を殺す人間は、追いかけられる動物に逃げるチャンスを与える。肉を食べない人間はそれよりもどれほどサディスティックで残酷なことだろう。鋭い理論家であれば、こう深く自問自答することが必要だろう―「もの静かなニンジンが狂暴な略奪者である菜食主義人格者からうまく逃げおおせる見込みはあるだろうか

"口唇期サディズムと菜食主義人格" (グレン・C・エレンボーゲン編/篠木満訳 「星の王子さまと野菜人格 卓越した心理療法家のための参考書」 星和書店刊)所収

ああ、哀れなニンジン。



小さい頃、母親に「砂糖を取りすぎると骨が溶ける」「コーラを飲むと胃がアナだらけになるって知り合いの看護婦経験者が言ってた」等々、結論を導き出すために暴力的な過程を用いたロジックを聞かされ続けたため、そういう話に敏感に拒絶反応してしまうのでつらつらと考えてしまったのでした。おしまい。

*1:アンテナを向けてるものが全然関係ない文脈に唐突に立ち現れてくるとなんかついニヤニヤしてしまう。このときも渡船待ちで一人でニヤニヤ。

*2:同じように動物番組の捕食シーンで悲鳴をあげたり泣いたりしないで頂きたい。