「顔の見える農業」がいつもニガテだ。

農作物を供給してもらっている上、住所やら名前やら家族構成にいたるまで公開させていると思うといたたまれない。
写真(その作物を手に、畑をバックに。傍らには家族)なんか貼ってあった日には、自分の、消費者としての加害者性が彼の目に見透かされてしまうようでとても直視できない。
こちらは顔の見えない消費者であるという不均衡さが落ち着かない。
顔を見せる農家の、顔を見せない農家への排他性が感じられる気がする。

そしていつも、落ち着きを少しなくし、ごめんなさいと謝ってその場を去るのだ。


ただ、それとは別に。


顔が見えないのが不安だなんて思ったことない。
そもそも自分の仕事だって顔を出すことはない。だからって別に手を抜かない。
むしろ手を抜くのなら他の理由からだと思う。例えば、自分の仕事の波及する「顔の見えない」人たちへの絶対的な想像力の欠如。

仕事の尺度というのは、それに顔を出せるか出せないかとは別のものだと思う。顔を出すのは目的であるべきではないのだし。
大事なのは自分から顔の見えない人に対する想像力とオマージュとかそこらへんじゃないかな。


自分の仕事が、一度も会う事のないだろう人から「おっ」と思われていたらいいなと思うのと同じ気持ちで、中国の、ブラジルの、アメリカの、国内の、自分の人生で一度もあいまみえることのないだろう、農家のおじさんおばさんに祝福あれと願う。


そして「顔の見えない農業」に安心が宿らんことを。

見知らぬ人に涙を流す以上の敬意はない

オンライン書店ビーケーワン:あらゆる名前「あらゆる名前」 Jose Saramago, 星野祐子訳、彩流社